1972年
「これまでの50年は飛躍のための基礎づくりであり、
その上に豊かな構造物を作り上げていく時代を迎えた」。
五島昇の言葉は新たな情熱と意欲に溢れている。
1972年
「その土地を理解し、その土地を愛する」。
目標をただ一つ「街づくり」とする五島昇の姿勢は
地方・海外進出後も変わることはなかった。
1972年
東急多摩田園都市の成長を緑の豊かさと関連づけて
約40年にわたり苗木を配る運動が続けられた。
こうした活動や計画的な街づくりが評価され
1989年に緑の都市賞・内閣総理大臣賞を受賞した。
1973年
東急グループの北米現地法人が住宅地の開発に着手。
1983年にワシントン州政府から自治権を得て
ミルクリーク市となる。
1977年
東京急行電鉄初の地下鉄が開通。営団地下鉄(現 東京メトロ)
半蔵門線との直通運転が開始(1979年)されると
田園都市線の利便性が一気に向上していく。
1978年
休日スポーツ人口の急速な増加を機に
地元地権者に協力を仰ぎ開発が進められた。
後年、時代の要請に応じて
あざみ野ガーデンズとして生まれ変わる。
1979年
渋谷の顔がこの年お披露目される。
国内のみならず海外までも巻き込む文化発信基地として
多くの人々に親しまれていく。
1982年
地元の期待を一身に背負い街づくりの象徴として開業。
都心展開が常識であった百貨店の郊外出店は
当時前代未聞のことであった。
1985年
永く親しまれた余暇の拠点が惜しまれながらも閉園。
ひとつの時代は人々の記憶としてその姿を変え
二子玉川ライズへとつながっていく。
1987年
文化的な生活を支えたいという願いは
メディアを自ら所有するという形で結実。
現在iTSCOMとしてその事業領域を大きく広げている。
1989年3月
時代を創り出しその先頭を走り続けた男が逝く。
増上寺では各界の名士達が思い思いにその生き様を偲んだ。
盟友 中曽根康弘氏は後年に執筆した自伝の中で
「せめてあと10年」と無念さをにじませた。
1989年9月
創業以来の文化事業の象徴となる施設が開業。
Bunkamuraと名付けられた。
数々の名演に彩られたオーチャードホールは大晦日恒例
東急ジルベスターコンサートの舞台として知られている。
1994年
港北区・緑区を再編、青葉区・都筑区が生まれる。
誕生を記念する区民まつりの会場は
新たな歴史のスタートを祝う人々で賑わった。