1916年
都市の過密化を憂いた渋沢栄一が
東京市郊外に理想的住宅地の建設を構想。
英国レッチワースをはじめとする欧米諸都市に倣い
後年「人間は、到底自然なしには生活できるものではない」
と想いを綴っている。
1918年
東急株式会社の祖となる田園都市株式会社が設立される。
宅地造成に加え鉄道をはじめとする都市インフラも
同時に整備していく壮大な計画がはじまった。
1921年
現在では高級住宅街として知られる田園調布も
この時まだ牧歌的風景が広がっていた。
1922年
事業推進の責任者に鉄道院出身の五島慶太が抜擢される。
この年、東京急行電鉄の母体となる
目黒蒲田電鉄の専務に就任。
当社の前身である東京急行電鉄の事実上の創業者となった。
1922年
第1期として353区画の分譲が開始された。
この地域は後に27.9ha・574区画の田園都市を形成し
やがて高級住宅街となっていく。
1923年8月
後に田園調布となる多摩川台地区の分譲が開始された。
美しい景観を維持し続けていくために
景観形成における紳士協定が示された。
1923年9月
人口の密集する京浜地区が壊滅的な被害を受ける。
しかし洗足などの田園都市はほとんど被害を受けず
震災を機に急激に人気を集めていった。
1923年11月
震災を乗り越え目黒~蒲田間を結ぶ目蒲線が全線開通。
住宅地建設を軸に交通基盤を整備していく
当社の街づくりモデルが確立される。
1923年
田園調布は同心円と放射状の道路で構成されている。
これは父栄一の命を受け欧米諸都市を単身視察した
渋沢秀雄がパリ凱旋門にインスパイアされたものである。
1929年
震災で被災した慶應義塾に対し
日吉台の土地約24万平米を無償で寄付。
これを機に東横線沿線が益々学園都市の趣を備えていく。