1959年
五島昇は集団指導体制移行という周囲の憶測を否定。
「企業において最高責任者は一人でなければならない」
と決意を表明した。
1960年
「この事業は第2の東急を建設するほどの大仕事であり
将来性の高い事業だと考える」。
五島慶太の想いは五島昇へと確かに受け継がれていた。
1961年
幾多の困難を乗りこえ伊東ー下田間46kmが開通。
工事期間2年の公約を果たした五島昇の信念が
東急グループの向かっていく道を示していた。
1963年
文化的な豊かさを求めて世界交流の場を具現化。
ヒルトンと東急グループの協力関係のもとに開業した。
ビートルズ、マイケル・ジャクソンから米国大統領まで
後年キャピトル東急となる同ホテルを愛好した
有名外国人は枚挙に暇がない。
1963年
浅利慶太、石原慎太郎、弘世現各氏と
日生劇場建設に尽力。時代を先取りする先見性は
当社の文化的街づくりへと受け継がれていく。
1964年
「第二の田園調布を」というビジョンを掲げ
たまプラーザの開発が行われた。
クルドサックを核に歩車分離を実現した街づくりは
東急多摩田園都市を代表する街並みを育んでいく。
1966年
計画を危ぶむ声が挙がる中、溝の口~長津田間が開通。
五島昇自らが先陣をきって奔走し
その才幹により計画は成し遂げられた。
1966年
当時、街の発展を見据えた駅前広場は類例なきものだった。
洒脱な感性を匂わす「たまプラーザ」の命名は
五島昇自身によるものである。
1966年
東急多摩田園都市の新たな都市ビジョンが発表される。
将来を見据えて、豊かな自然環境と都市的環境の両立を
段階的な発展により促す壮大な構想であった。
1967年
駅前広場に面する複合施設として整備された拠点には
低層部に東急多摩田園都市初の本格的商業施設となる
青葉台ショッピングセンターが配置された。
1969年
時を経ても色あせない、本質的な美しさの追求。
その姿勢は当社の住まいづくりの源流となり
今もなおドレッセシリーズに受け継がれている。
1971年
東急多摩田園都市は路線延長と地域開発により
沿線人口の増加を呼びこみながら順調に発展。
街づくりの舞台は全国へと広がっていく。