1971年(昭和46年)。美しい国づくり、街づくりをめざして
地方への進出がはじまりました。
鉄道事業にとって国づくり・街づくりは、本来の仕事だと思っています。
故五島昇は、街づくりへの想いを唱え続け、そのフィールドを全国へと拡大します。
東急多摩田園都市の開発が形をなしてきたころから、東急株式会社は街づくりのフィールドを全国へと拡大していきます。1971年10月。当社と東急グループ4社(東急不動産・定山渓鉄道・東急建設・東急観光)は、共同企業体という東急グループで初めての開発形態をもって北海道札幌市郊外の上野幌における約60万平方メートルの宅地開発推進を決定。翌1972年5月には愛知県知多市西谷地区で同様の共同企業体を設立。39万平方メートルの宅地開発に乗り出しました。同年10月には福岡市に九州開発事務所を設置し九州の地域開発に進出していきます。
1972年(昭和47年)。九州で最大の住宅都市
小郡・筑紫野ニュータウンの開発がはじまりました。
東急株式会社は、総開発面積の約3分の1にあたる470万平方メートルを開発
計画的な街づくりが進められてまいりました。
1972年。政令都市の指定を受けた福岡市は九州全域の中心都市として政治、経済、教育、文化などの中枢管理機能の集積度を年々高めており第3次産業を中心に人口が急増していました。諸般の事情に鑑みて福岡県は筑紫野市、小郡市にかけての丘陵地域を大規模ニュータウン建設の予定地域に位置づけ、民間資本を積極的に誘導する方針を打ち出します。当社はその方針に呼応して同地域の開発の一翼を担うことを決定。計画的な街づくりに取り組んでまいりました。地方公共団体の支持のもとで地域開発を環境開発として展開していくことは大変意義深いことといえます。